こちらは5/25開催のキャラフレ内皐月祭ステージイベントにおいて、男装アイドル「doubt」のトーク&朗読劇で使用した台本を物語として読みやすく編集したものとなります。その為一部表現等が実際のイベント時と異なりますがご了承下さい。
なお、前編のURLはこちらとなります。
※ ※ ※
小さな世界の小さなお城。
その奥底には大きな空と大きな大地、
そして、大きな怪物とひとりの少年が居た。
姫君、あるいはフラウ・ローゼが辿り着いた先は彼の暮らしているという小屋だった。
まだ、あいつは近くにいる。
――フラウ・ローゼには姿を見ることのできない怪物が。
少年は息を殺し身を縮めて、彼女にもそうすることを身振りだけで命じた。
フラウ・ローゼは言われた通りに古ぼけた戸棚の陰にうずくまる。……黴臭い。
怖いのは目に見えぬ怪物より、助けてくれるよりも脅す、という方が近い少年の厳しい視線と震える吐息だった。
暫くして小屋の窓から夕陽が差し込み始めた頃、
「――もう大丈夫だ」
少年は小さく告げて、大きく身体を伸ばした。
姫君もまた、床にへたり込むも慌ててはしたない、と姿勢を整えた。
……ここには、誰もいないの?
フラウ・ローゼはずっと感じていた疑問を初めて口にした。
少年の横顔は夕陽に翳り、口だけがほんのわずかに、
「誰もいない」
初めて言葉を交わしたときのように、愛想無く答えた。
「みんな、あいつに食べられた」
『それがいつの頃からかはわからない』
愛する家族の名を呼ぶ親と、呼ばれた子。
明日も遊ぼう、と約束を交わし合う友達同士。
秘めた想いを囁き合う恋人。
憎しみに心を黒く染め、互いを呪う敵。
名前を持ち、それを口にする者、された者はすべておぞましい姿の怪物に飲み込まれたのだ。
「僕の家族がそうだったように」
少年はそこまで語り終えると、肩を震わせ小屋の床に両手両ひざを突いた。
……ごめんなさい
姫君は他に、語るべき言葉を持たなかった。
夜の闇が訪れ、小屋に仄かな灯りがともる頃、少年はどこからか運んできたスープの皿を粗末な汚れたテーブルの上に置き、フラウ・ローゼに食べるよう促した。
それは冷めきっていて、何が溶け込んでいるかもわからないような薄味の液体。
小さな姫君が何度も口にしてきたものと全く同じ――味のしないスープだった。
……これは、誰が作ったの?
フラウ・ローゼの問いかけに少年は知らない、とだけ答えた。
やはり姫君の食事と同様に、決まった時間にどこからともなく台所に置いてあるのだという。
その時彼女は、なぜ自分がこの場所へと辿り着いたのかを思い出した。
……ねえ、魔法使いのお婆さんを知らない?
探し求めていた老婆も、お城から地下へと続く階段を辿って、この広く大きな草原にやってきたかもしれない。
あの豪華な食事を、今度は少年に与えることが出来れば。
そうすれば、深く沈んだ表情にも優しい笑みが浮かぶかもしれないと思うとフラウ・ローゼの心は躍った。
「その魔法使いに、名前はあるのか」
少年はスープを早々と平らげると、そう尋ねた。
「名前があるなら、あいつに食べられてる。その人がどんなすごい魔法を使っても、あいつには勝てっこない」
やがて夜も更けると、少年は彼の母親が使っていたという部屋へフラウ・ローゼを案内した。ベッドと鏡台くらいしかない、女性の部屋と呼ぶには殺風景に過ぎる部屋だった。と言うよりも、随分長い間使われた形跡が無い。もしかしたらこの小屋自体が少年の家では無く、誰も住んでいない所を彼が無断で間借りしているかのように思えた。
そんな思惑にまるで気づかないような少年が自分の部屋へ戻ると、フラウ・ローゼは床につく。
なかなか眠りにつくことが出来ない、静まり返った夜のなかで彼女は見えない怪物に恐怖よりも、興味を感じていた。
朝になってフラウ・ローゼはどうしてこの場所に来たのかよりも、どうやってもとのお城に帰るべきかを考え始めた。
目の前の少年に、いつまでも手助けしてもらうことはできないだろう。
何よりここは、自分の居場所ではない。
そう思った姫君は、少年に頼んで出会った花壇の近くへと連れ出してもらった。
辺りを見渡しても、何もめぼしいものは無い。
お城へ続く階段や、扉はあるだろうか?
草原のど真ん中で、姫君は詮無いことを考えた。
辺りをうろうろするフラウ・ローゼに構うことなく少年は花に水をやり始めた。
それが彼の仕事なのだ、と言う。
とは言え花など、今や誰も見ることはなく、捧げる相手も居ない。
ただそこに咲く花の生命を、一日でも長く引き伸ばす為に。
花に名前は無い、と少年は言った。
けれどフラウ・ローゼは思う。
……ならば、どうして人には名前があるのだろう?
……自分と他人とを区別するため?
……自分が何者であるか、明らかにするため?
お城にひとりきりでいたことは、考えもしなかったことだ。
……アイン・ニーナ・ミフネ
……スー・イツキ、……ロク……?
突如聞きなれない言葉をしゃべり出すフラウ・ローゼに、少年は訝しむような眼を向けた。
……この花たちの、名前
彼女が指さす先には、小さな花が丁度六輪、開いていた。
それもまた、少年が育てている花である。
彼が激怒して、止めろ! と叫ぶのと、おぞましく、身を震わせる咆哮が轟くのは同時だった。
「……怪物、だ」
たとえ植物といえど名前を持つものは怪物の贄とされる。
少年は悲痛な顔で咲き誇る六輪の花を見つめた。
花はまた咲く。身を挺して守るようなものではない。
けれど、蹂躙される様を黙って見ているのは辛い。
一方フラウ・ローゼは一歩も動くことはできなかったけれど、心のなかには怯えとは違う何かが芽生えていた。
怪物の気配は辺りを彷徨うように少しずつ、動いている。
けれど花たちは土からむしられたり、食べられたりもしていない。
太陽の光を浴びて、鮮やかに輝いている。
不思議そうな顔をする少年とは裏腹に、フラウ・ローゼにはある確信が芽生えた。
……私の名は、フラウ・ローゼ
水面に落ちる滴のように、その声は静かに響き渡った。
少年は驚き、焦り、戸惑うことも忘れ次の瞬間訪れるであろう惨劇を予測し思わず両手で目を覆った。
穏やかな陽光、生温い風、そして耳を裂くような沈黙。
耐えきれなくなった少年がそっと目を開くと、そこには先程までと変わらないフラウ・ローゼの姿があった。
「何で、平気なんだ?」
……本当の名前じゃないから
彼女は、それがごく当然であるかのように告げた。
ついさっきつけたばかりの花の名前も同じ。
『偽物は、怪物さえも欲しがらないの』
いつの間にか、怪物の気配は消えていた。
その夜、少年は初めてフラウ・ローゼの話を聞いた。
小さなお城に住まう、ひとりきりの姫君。
姫と呼ぶには貧しく、寂しい小さな世界。
けれどそこは彼女にとって唯一の居場所。
……帰りたい、その思いは変わらない
嵐の夜に出会った不思議な老婆、彼女ならフラウ・ローゼを名も無き姫君に戻してくれるかもしれない。
少年はこの場所を去ることなど考えたことも無かった。
けれど何時までも少年もまた、少年のままではいられない。
共に魔法使いを探し、フラウ・ローゼは故郷に、少年は新しい自分自身を探す旅に
それぞれ向かうことを約束した。
少年のほうには、そうでもしなければいつまでもあの怪物に怯えて生きなければならないという感情もあったのだが。
そして、フラウ・ローゼは夢を見る。
ひとりきりで過ごしてきたはずの彼女に、
いるはずの無い友達というものがふたり、彼女に笑いかけている。
ときに喧嘩もするけれど、そばにいるだけで強くも優しくもなれる、そんな友達。
覚めないで欲しい、と思うほど幸せな夢。
それは夢でしかないことが、明らかな夢だった。
味のしないパンを朝食に、フラウ・ローゼは考える。
そもそも、この少年は誰なのだろうかと。
なぜ、見知らぬはずの自分を小屋に停めてこうも世話を焼いてくれるのだろう、と。
窓を見ていた少年は苦々しく呟いた。
「外は雨だ、出掛けるのはよそう」
彼が言うにはこの季節、雨が降るのは珍しいことらしい。
雨。そのひとしずく。
とても小さな、すぐに蒸発してしまう脆く儚い世界。
少年が止めるのも聞かず小屋の扉を開けて、降り注ぐ雨に身を晒す。
それは老婆がお城を訪れたあの日、吹き荒れた嵐と同じ気がした。
あとを追いかけてくる少年と共に、森の中を行くと
またも怪物の気配が近づいてくる。
けれど、それまでのような恐ろしさは感じられず、
姿が見えない筈の怪物は、フラウ・ローゼの目の前でひとりの少女へと姿を変えた。
雨は変わらず、三人を打ち続ける。
怪物だった少女は、まず少年に告げた。
『あなたの、本当の名前を――姫君に与えなさい』
少年にとってその声色は懐かしい友のようでも、魔法使いの老婆のようでもあった。
異なる声が重なり合い、ひとつの意思を体現していた。
「僕の、本当の名前?」
『記憶から生まれては消える、幾多の名前』
『この世界にただひとつ残された』
『唯一の、真なる名前』
少年の目は、怒りに震えていた。
「だとしたら、お前に食われた人たちは――僕たちは、なんのためにこの世界にいたんだ!」
選別される者、それが彼らの存在理由だった。
最終的に残ったのが少年というだけの話である。
『取り戻したかった』
『失ってしまった、大切な人の名前を』
『どれだけたくさんの名前を思い浮かべても』
『どれだけ多くの名前をこの身に取り込んでも』
『遠い思い出が甦ることは無かった』
少女は、フラウ・ローゼのほうを真っ直ぐ見つめた。
『あなたは私――まだ、あの人の前で笑うことのできた』
『無邪気だった頃の私』
『置き去りにして、ごめんね』
少女の手が、フラウ・ローゼに伸びる。
『一緒に帰りましょう、あなたの真なる名と共に』
もうあなたに寂しい思いはさせない。飢えも、貧しさも無い世界へ、共に。
さもなければあなたは、あなた自身ですらいられなくなるのだから。
けれど、フラウ・ローゼは静かに首を横に振りました。
……私は、誰ともひとつにはなれない。
……六輪の花に名前はなくても、それぞれの色を持ってるから。
……私とあなたは同じでも、違う色の花だから。
雨は、降り続く。
空を見上げていた少女の姿は、やがて溶けるように薄れてゆく。
『やっぱり、忘れていくことしかできないのね』
『何もかも、無かったことのように』
『もう二度と、私は私に、あなたはあなたの居るべき所に帰れない』
……いつか、思い出すことはできないの?
『そのまえに、私があなたも忘れてしまうから』
痛みも悲しみも喜びも、雨は洗い流してゆく。
そこに新しく、何かが生まれるのだろうか?
ただ虚無が続いてゆくだけなのかもしれない。
けれど、フラウ・ローゼの心に後悔は無かった。
森を抜ける頃、雨は止み雲の切れ間から陽光が射し始めていた。
「レイン」
不意に少年が、聞きなれぬ名を口にした。
「僕の――そして、あの怪物の本当の名前だ」
少年はフラウ・ローゼをまっすぐに見つめる。
「この名前を君に、あげてもいい。きっと、君が持つべき名前だと思うから」
フラウ・ローゼは静かに笑う。
それは彼女が誰かに、初めて見せた優しい笑顔だった。
……私の名乗るべき名前は、これから探すの
……一緒に、手伝ってくれる?
広がる平原の向こうには、人の暮らしの気配が漂う。
怪物の代わりに、世界には新たな可能性が芽生え始めた。
少年は力強く頷いて、フラウ・ローゼと共に歩み出した。
それがどれだけ困難な旅でも、
彼らの行く先にはいつも、
彼らの大好きな花が咲くことだろう。
※ ※ ※
アイキャッチ画像提供
https://pixabay.com/