チャイルドフッズ・エンド
岡元 奏
凡そ十三時間と五十分を経て、色の不明瞭なゴムボールは私の許に戻って来た。小学生が野球をするときに使うような安物だ。確かに私は約十四時間前、いつの間にか手にしていたこれを眼前の暗闇に向かい真っ直ぐに投げたのだ。奇妙なことは充分承知だが、それが戻ってきたということは即ちこの道の先は行き止まりになっているのだ。
そもそもの『奇妙』はいつからか私がこの薄暗い通路を歩き続けていたことに端を発していた。何処へ続いているのか、或いは何処までも続いているかさえ知る術も無く。
パケット・インターネット・グローパー(PING)。
通信を送れば応答をくれるそれを思い出し、視界不良の通路の先に何が存在するのか、このボールはそれを知る一助になることに気が付いた。例えばこの先に壁があれば、ボールは反射されてこちらに戻ってくる筈なのだ。フォームを取り、肩の力を振り絞って手から離す。その軌道はすぐに闇の中へ見失った。私は自らの存在と目的を託したボールの帰りを待った。暫くして眠りにもついた。夢見ることなく目覚め、空腹も感じないまま座して時を過ごした。思案に暮れることは出来た筈だが、敢えてそれをしなかった。今こうしているのは自分の、或いは他の誰かの夢だ、などと考えることは虚しいのだ。
木陰に潜む鳥のように待ち、床を頼りなく転がりながら戻って来たボールを見てこの一本道の迷宮の先に行き止まりが存在することを確信し、更なる疑念を持った。
そこに希望はあるのだろうか?
迷宮の彷徨に終着点があるということはひとつの達成を、新たな獲得を必ずしも意味するのか?
希望から生じる興奮と懐疑から生じる恐れとが互いを打ち消しあうなかで歩を進めると、次第に両肩が締め付けられるように痛み始めた。相も変わらず深い暗闇のなかで気づかなかったのだが、進むにつれ左右の壁の幅が少しずつ狭くなっているのだ。私は態勢を斜めに、やがて真横にする。ゴムボールを使った計測をもとに目的地までの距離や所要時間を割り出そうとする脳裏に追い打ちのような恐怖が浮かぶ。次第に狭くなる通路は、直径ニ十センチに満たないボールは通ることが出来ても、人間は精々握り拳の届く範囲までしか進めないのではないだろうか?
それでも今は放ったピン(PING)の答えを信じるしかないのだ。
全身を押し潰されるような不安を踏みつけ、何とか通すことの出来る脚を慎重に進めると、突如眩しい光が目に飛び込んできた。瞬きの裏に三原色の矢が飛び交った。
ゆっくり目を開けると、私は自分の足元を見て驚いた。丁度足の幅の分しか無い細い道。その下には底の見えない暗闇が広がっている。
思わず後ずさりした拍子に、右手に握っていたゴムボールを落としてしまった。恐らく二度と戻ってこないだろう。滴り落ちる汗を拭う気もせず、重心を落としながら今まで以上に遅い歩を進める。
私は子供の頃、歩道の縁石を踏み外さないように歩く遊びをしていたことを思い出した。ぼやけていたままの目が光に慣れてくると、足元だけでなく頭上やその周囲を見渡す余裕が生まれた。薄茶色の広々とした円筒状の空間を進んでいることが把握できた。その壁面には様々な絵のようなものが無造作に張り付けられている。次第にそれらは明確な形や色を持ち始めた。
何かの式典なのか、ブレザーにネクタイ姿の少年や明らかにいまわの際とわかる弱弱しい老婆、歴史の教科書には高確率で掲載されている有名な建築物、新聞記事でよく見る強面、つまりは犯罪者などの、写真だった。様々な時間や場所を写したものが至るところに点在している。そのうちの一枚が私の目を留める。
場所は南の島だろうか、雲一つ無い空と砂浜を背景にふたりの若い男女が並んで口元を上げ微笑んでいる。均整の取れた身体つきはさながら旅行会社の宣伝チラシのモデルのようだ。
私はその男を知っていた。エスカレーター式の私立を大学卒業まで優秀な成績で駆けあがり、名前を挙げればほぼ知らぬもののない大手企業で順調に出世コースを歩み、取引先の社長令嬢と知り合って一年も経たないうちに半ば政略結婚に近い形で人生を共に歩むことになり、手にした成功の数々を失わぬ為にあらゆる自由を擲った男だった。
彼の人生は不遇でも苦難に満ちていたとも思わなかった。むしろ経済的にも家庭にも恵まれた幸福な男だったのだが、エリートと称される人種の大抵がそうであるように常に何かを強要されていた男でもあった。
さながら一本道の迷宮を歩むように。
人よ、理由を問う勿れ。
いつしかその一本道は、鉛筆と定規で書いたような黒い線ほどの太さになっていた。
それ以上に驚くべきは私自身の脚がそれに併せたように黒い線と化していた。腰も、胴も、腕さえも身体のすべてが子供の落書きする棒人間のようだった。だとしたら頭は丸く、目や鼻、口も単純な点で表されているのだろうか。これを夢だと思い込むなら、現実とは何だ?
それでも暫く進み続けると、もはや道とは呼べない直線は先が十字路となっていた。別の細い線が道となって現れたのである。その右手側からやはり身体や手足が線で、丸い頭をした棒人間が歩いてくる。その歩調は私と全く同じで、互いに交差点の一歩前で立ち止まった。
彼はゆっくりとこちらを振り返る。
私の顔色は彼と同じように謙譲と独占、親しみと敵意、威圧と恐怖といったあらゆる色を内包して黒く染まっていることだろう。
「私が通るまで、そこで待っていてもらえませんか?」
全く同時に発した言葉は、一人の人間の言葉のようだった。
異なる線と線が交わる点。そここそが行き止まりであり、新たな次元への道標だった。
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短編小説コンテスト用に書いたものを微調整した作品です。
単純化するというのは難しいですね。