小説:「Dix」

〈私の近況など、不幸であればあるほど貴方には喜ばしいことでしょう。そしていつか此方側へ戻ってくる日の為に、そうあり続けようと思います〉

二連続パーフェクトゲーム。
軽快な音を立てピンを倒す早川舞の投球はその全てがストライクという、ボウリングなど得意ではない筈の当人にも信じがたい結果だった。

「凄い! 舞さん、やっぱり完璧ですね」
星カナエは自身のスコアなど気にすることなく無邪気に笑いかけたが、舞自身は完璧などと言われるほどのことでは、とだけ思う。
「それに今度、ドラマ出るんでしょ? うちの演劇部OGから本物の女優さんが出るなんて、やっぱり舞さん――」
「止して、台詞も殆ど無い脇役よ。それよりどうなの、文化祭の公演は」
「……舞さんに、見て欲しいホンがあるんです。倉庫の小道具を整理してたときに何冊か、前に誰かが書いたみたいなものが出てきたんです。これなんですけどね」

カナエから手渡されたのは古く、一部変色している大学ノートだった。
舞はその煤けた紙と走り書きされた文字に見覚えがあった。

〈先生の唯一の罪は、あの男がこの先犯すに違いない多くの罪を未然に防ぎました。私は死ぬ迄に、そのことを多くの人に伝えます。その為に私は貴方に裏切り者と呪われて、それでも神様に傅き祈ります〉

配役表を見ると十一人。所々記載のない、けれど書かれた名前全てには記憶がある。
「どう思います? タイトルも、トウ……『祷の河』……って、何て読むんでしょう」
「イノリノカワ。私達が現役だった頃、やろうとして没になったものよ。役不足でね」
シャープペンで乱雑に書かれた文字には消しゴムを使うのも面倒になったのか、黒く塗りつぶして訂正したような箇所まである。
「完璧とは、ほど遠いホンね」郷愁に浸る舞をカナエは現実に呼び戻すように声を掛けた。
「舞さん、何でボウリングのピンって十本なんでしょうね」彼女は台本から目を離さないままの舞に、そう問い掛けた。
「数字は一から十を起点とし、十一からは無限となりうる数。この世に踏みとどまる為に十であることを目指し、在り続けなさい。丁度この主人公の台詞。それと同じでしょ」
「そうでしょうね、私も覚えちゃいました」
「演(や)りたいの?」
「舞さんの、許可さえ出れば」

〈罪を犯した者が、罰を渡し賃にして此方へ戻ることは許されないのです。でも先生は、いつか再び私の前に現れるでしょう。その時、私は贖いを果たすでしょう〉

「何故? 今日は遅いわ、送るけど――」
その時、舞は気づいた。ボウリング場に自分とカナエを除いた客はひとりも居なかった。
「出演者は十一人。主人公は新人の先生で、あとは学校の生徒。今は役者も確保できます。でも先生役は、舞さんに演じて欲しいんです。だってそれ、貴方が書いたホンでしょう?」
唐突かつ不躾な頼み事をするカナエの姿が、一瞬透き通る水のように見えた。
「舞さんは完璧に至って、その壁に閉じ込められた人です。……いいえ、どうかその壁を壊そうだとか、乗り越えようとかは思わないで下さい。思えばきっと、水のように溶けてしまうか、空気のように蒸発してしまいます。誰も無限には届かないんです。気づいてましたか?」
何故カナエはこのノートに殴り書きされたような台本が、自分の手に因るものだと気づいたのだろう。舞の胸に去来する記憶を罪だと断じるなら、その理由は贖いかもしれない。
『祷の河』は未完成の台本である。本来公演で用いるはずの、しかし舞は結末を書き切る覚悟を失ったものだった。如何に書こうと公開すれば演劇部そのものに対する評価の失墜を招きかねない内容だと彼女は思っていた。
だから、演じることに転向し、専念したのだ。それこそ完璧であることを目指して。

「貴方は弁明も、逃げることも必要なかったのです。貴方が命を奪った男の行状が白日の下に晒されれば、それだけで衆愚の見る目は変わる筈でした。だから私は、それに気付かない貴方を法の手に委ねることを選びました。恨まれているでしょうか? けれどその壁はいつか崩れ、光の差し込む日が来ます。その時が来たら、私にその報いを果たして下さい」

カナエが叫んだそれは『祷の河』の最後に書かれた、主人公の新人教師を信奉する女子生徒が彼女に向けて宛てた手紙の最後の一節である。その後の事は、舞の脳裏にしか無い。
感嘆が舞の心に満ち溢れた。カナエの演技は作品世界を包み込む水の、空気のようだった。彼女は完璧であることを否定し、無限の側へ飛び込んだ私なのだ。舞は呼応するようにその存在を新人教師と合一した。そして、彼岸の向こうで待ち受ける女子生徒へと歩き出す。

彼女の言う、贖いを完遂させる為に。

 

 

 

 

※※※

とある短編小説コンテストに応募して落選した作品です。
落選したということで、語るべきことは何一つありません。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください